子供のころ面白がってビールを口にしたことがあるらしいが覚えていない。
親父は一滴も飲らない。おふくろもほとんど飲まない。

ところが、親父の弟である叔父はよく飲んでいた。大酒のみだったように思う。
叔父は昼間っからカンテキ(七輪のこと)で酒粕を焼き砂糖をはさんで食っていた。
たぶんこれを肴に日本酒を飲っていたのだろう。いつも酒くさかった。

俺は子供のころ、この酒粕が嫌いで「粕汁」も「粕浸け」も食えなかった。
おそらく日本酒の匂いがたまらなく嫌だったのだと思う。
今では飯の代わりに「米の汁」とかいいながら飲るのに不思議だ。
叔父は飲むが、親が飲まないのにいったい誰に似たのか?
きっと祖父母かその上のご先祖あたりに呑み助がいて「隔世遺伝」とかいうやつなのか?

16歳のころ家出をし友人宅を転々としていたとき初めてウイスキーを口にした。
忘れもしない。
サントリーレッドのポケットサイズをコーラで割り3人で飲み、
3人とも「3日酔い」したのである。
3日間ひたすらに吐いた。

脱水症状で水を飲んでも吐く。
内臓まで出るのでは?と思うほど吐きまくった。
3人でレッドのポケットサイズ1本で・・・
いまなら寝起きのコーヒー代わりに一気にゴクゴク飲れる!
酔いもしない。「ポ」っとなるだけ。
当時、レッドのポケットサイズは1本150円だったので、1人50円で3日間酔えた計算である。

いつまでも友人の家を転々とする訳にもいかず思案しているときに、偶然にも知り合いのそのまた知り合いの家業の新聞屋に住み込むことになった。
16歳で自立である。

当時新聞屋は、「新聞屋ごろ」とかいって「魚河岸」と共にごろつきの集まるところだった。質の悪い労働者をろくに身元も調べずに雇い入れたのである。
中には「奨学生制度」というものがあって「苦学生」の職場でもあったわけだが、基本的には怪しい輩の職場である。
ぴちぴちの16歳である青少年の俺は、当然のごとく怪しい大人に色んな事を仕込まれていくわけである。酒は「吐いて強くなれ」とかいわれて・・・

毎日飲み歩いて4畳半のアパートに帰ると天井がぐるぐると回っている。
45度くらいに天井が傾いていた。
今思えば懐かしい感覚である。
今はどれほど飲んでもそこまで酔わない。

きらきらとミラーボールの回るキャバレー。
3000円のチップでパンツを脱ぐホステス。
今のようにカラオケなど無く、手拍子だけで歌うスナック。
16歳、高校1年生の俺は夜毎こんな掃き溜めで飲みつづけ、
酒臭い息を吐きながら登校していた。

と、いうよりも早朝から働いて深夜まで盛り場を徘徊した「寝不足」を解消するため学校へ行っていたというのが正しい。

1時限目から6時限目まで飯も食わずに寝ていたこともあった。
教科書はよだれでぼこぼこ。
起こすとしばかれるので誰も起こさない。
先生もそっと寝かせてくれていた。

毎朝3時半ころ職場に朝刊が届く。
それから折り込みのチラシをセットして配達に出る。
遅くとも5時半ころには出勤しないと遅配で苦情がくる。
今のように新聞休刊日などという軟弱なものはほとんど無い。
雨の日も、風の日も、雪の日も2日酔いを押し殺して配達は続く。

早朝は怪しい人間の出没も多発する。
布団を頭からかぶって走りまわってるやつ、
奇声をあげながらポントウ(日本刀のこと)を振り回してるやつ、
夜働いて就寝する前なのかシュミーズ(キャミソール)姿で朝刊を受け取るおばはん。
よく見ると、昨夜安キャバレーで3000円でパンツを脱いだホステスってこともあった。

俺の青春時代、周りを見渡すと、
アル中、シャブ中、売春婦。
袋の中のG10をプチプチつぶすシンナー中毒。
いろんなジャンキーがあふれていた。

16歳の少年が、凍てつく冬の早朝にかじかむ手を擦りながら朝刊を配達する。
学費も食い扶ちも自分で稼がないと誰も助けてはくれない。
同級生は過保護な環境でぬくぬくと生活している。
このストレスを酒で紛らわせる方法を編み出すことにさほど時間は必要なかった。

今考えたら俺がアル中になる環境は整っていたのである。
酒と女と暴力。
当時は同級生より少しだけ大人である自分に酔っていたのも事実かな?
今はボロボロやけど・・・

しかし、まだこの頃はアルコールに依存はしていなかった。
ただ、飲めたのである。
他人より酒に強いのが自慢でもあった。

掃き溜めであれなんであれ、
独りで生きていく16歳の少年にとって、
大人の世界は甘美だった。
孤独を押し殺して、甘美な世界を堪能するには十二分なアルコールが必要だった。




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